海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

夏のおわり

連日30度越えの佐渡には珍しい暑さの中、私は自転車のかごにノートとデジタルカメラの入ったカバンを放り込んで相川の町を駆けていた。

 

近頃は空き家が次々と壊されて、帰るたびに更地が増えている。

 

このひと夏でも近所の石扣町にある空き家の解体が大方終わり、業者のトラックが廃材を積み込んで走り去っていった。

 

家のあったところの奥に何かサムシングが見えた。

 

門のついた石造物、お墓に見えた。

 

石扣町の一角、ここは江戸時代、「専法寺」という真宗の寺院があった場所らしい。

 

石扣町には永弘寺という真宗寺院もあった。

 

永弘寺は一町目裏町に永宮寺と名前を変えてある。

 

石扣とは鉱石を砕くための石で、そのくぼみの中に鉱石を入れてそれをセットウか何かでたたいて鉱石を砕く。

 

永弘寺は越前金津からきた寺院であり、岩倉氏、今井氏、金津氏など七人の門徒を連れてきたという(金津氏は戸地にいたと思う。岩倉氏は下戸だったか)。

 

相川には今も10の真宗寺院が残る。鉱山労働者を主な門徒にしていて、江戸時代の初期に相川に来ている。やはり越前、越中、加賀など北陸が多い。

 

石扣町は、越前などからきた石材業者の町であったのではないかという。

 

相川保育園の横、ご門前から寺町に至る石坂は小六町の遊郭の楼主が買い付けた越前石だという。越前は石の名産地だったのか。

 

専法寺について、名前と場所くらいしか私にはわからないが、北陸から門徒の一団を率いてきたのではないかと想像がつく。

 

そんな寺があったことなど知る人はないし、わずかな石造物と、あのあたりに井戸があったということを記憶している人がいるにすぎない。

 

おそらく鉱山が衰微していくにしたがって門徒が相川を去り、檀家が居なくなって寺も移転・合併したのだろう。

 

最盛期、この町には133の寺があった。鉱山の衰退と明治維新廃仏毀釈で大きく減ったが、相川によく墓地や大小の堂宇を突然見つけるのは、そこに寺院があったから、という場合が多い。

 

相川だけで西国にならって三十三観音を定め、巡礼をしたほどだ。

 

その信仰行事も様々で、「天保年間相川年中行事」には、寒念仏、題目などが描かれている。街々を巡って堂宇の勧請のために浄財を集めていたのだろう。

 

それらの行事がいつ姿を消したのかはわからないが、日蓮宗の寒行はついこの間まで見られた。

 

様々な信仰行事を支えていたのは街々にいた熱心な信者だ。

 

人々は月々の講中に集まり、経をあげ、一心に仏を拝んだ。

 

西坂の下に阿弥陀堂大日如来堂がある。

 

西坂の入り口、ここは江戸時代牢屋と処刑場があったところである。

 

江戸沢にある塩竃神社はかつてここにあったが、処刑場に近いこともあり、江戸沢に移転した。そしてかつての塩竃神社のしたにあるのが塩屋町だ。

 

大日如来堂は旧善宝寺堂だったらしい。善宝寺信仰も佐渡では盛んだった。

 

その堂宇建設の寄付者一覧が風雨に耐えながら飾られている。

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石扣町、小六町もあるし、京町、新五郎町、大工町もあった、その他相川のほぼすべての町に念仏講があったことがわかる。

上町の人に、念仏講について訊いた時もあった。その人はもう高齢だったが、子供の時に祖母が念仏講や二十二夜待に行っていたことを記憶していた。

 

それ以来講中のことは見聞きしないということだった。どこかで見たが、大東亜戦争と高度経済成長で講はほぼ廃れてしまったいう。

 

そして今、下町の講中もほとんどが解散してしまった。

 

この堂宇も、羽田町や長坂町の講中の集まる場所であったが、今では管理する人とてなく、中は植物に侵食されていた。

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石扣町の住人で、長い間に二十二夜待に参加していた方の話を聞く機会があった。

 

10人いた講中は一人減り、二人減り、最後は三人になって、行く先を相談した末、解散を決めた。

 

町内で人が亡くなったとき、念仏を唱えに来たのはこの講中の人たちであった。

 

野辺送りには鉦をたたいて仏を見送った。

 

通夜、葬式、シアゲと、御詠歌や悲しい念仏、和讃、真言を唱えた。

 

今は密葬だから、鉦たたきくらいしかやることがなくなった、という。

 

十二夜待で集まってみんなとお茶をすることが楽しみだったという。

 

新年に塩屋町の人に呼ばれて百万遍をしたこともあった。

 

郷土史家・田中圭一氏の本でいつか読んだ。自分の作り出すものが必要とされなくなったとき、人は時代の流れを実感する。

 

講中を受け継ぐ人はもういなかった。

 

紙屋町に、北向地蔵尊という霊験あらたかなお地蔵さまがある。

 

紙屋町の講中で守っていたが、今年から地蔵さんまつりはやらなくなった。

 

講中の人が居なくなったことに加え、みな高齢で続けられなくなった。

 

御詠歌や和讃の節は失われていく。そうして無くなってから、みんなで嘆く。

 

解散、廃止、終了、どこを向いてもそんな話ばかりだ。

 

店もなくなるし、家も壊されていく。

 

おびただしい墓と石造物があとに残るかもしれない。いずれ上相川の様になるのかもしれない。

 

鉱山町の終焉が近づいている。

 

我々はそれを今しも目にしているのかもしれない。