海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

竹内洋『日本のメリトクラシー』初版を読んで

メリトクラシーとはメリト=能力ある人々による統治と支配が確立する社会のことです。

本書は教育社会学者の竹内洋さんが日本におけるメリトクラシーを分析した本になります。なお今回読んだのは初版の方でして、増補版は未だ読めておりませんが、お許しください。

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帯に注目

前提となっている議論はたくさんありますが、ここでは最終章をもとにかいつまんで要約してみます。

メリトクラシーでは試験などの選抜により能力が計測されますが、欧米ではこれが階級文化を「密輸」しているのではないかという疑惑が存在し、研究されてきたようです。

例えば面接試験や論文試験で求められる能力が上流階級のそれであることから、結果的にそれ以外の階級の人は(能力があっても)不利になってしまう、といった疑惑です。

もちろんそれも妥当なのでしょうが、日本ではこの密輸論はリアリティに乏しいと竹内は指摘します。

それはなぜなら日本では階級文化というよりも国民文化が求められるのであり、階級を上昇するためには国民文化を身に着けること、いわば「日本人化」することが求められているのだと言います。

そしてこれがエリートと大衆の同質的幻想を生み、心理的距離を短縮して、結果的にマス競争社会がもたらされるのだと説きます。これは見事な分析だと思います。

ただ一応だからといって日本に階級文化が存在しないわけではないこと、そしてメリトクラシーに疑惑が存在しないわけでもないことが重要です。

この日本のメリトクラシーへの疑惑の正体は増幅効果論にあると言います。

つまり過去の選抜の勝者は次の選抜でも有利に、敗者はますます不利になるといったように増幅されるという議論です。トーナメント効果とも言います、トーナメント戦は勝った人は選抜が続きますが負けた人はそこで終わりですので、それになぞらえて。

具体的に言えば、東大京大になどに入れば就職活動も有利になるし、Fラン大だと厳しい、というような見方は既に根強いですが、それと同時に学歴差別も炎上しやすいと思います。先日も就活生のメールに「大東亜以下」と書いてあったことが話題となったのを覚えている方も多いでしょう。

そういう増幅効果への疑惑が日本では根強く、その疑惑を崩すために「リシャッフリング型選抜規範」が存在すると竹内は言います。御破算主義と言ってもよい。簡単に言えば、一度競争に負けても、また次にチャンスがあるぞ、と言うことで競争を再加熱するということです。

同時に、過去の勝者への評価を必要以上に低くし、昇進が遅れるような、生贄にされる者も存在します。また、論文入試を導入し選抜に揺らぎやランダム性を与えることもなされています。これらの論理はまさに増幅効果を警戒し、メリトクラシーへの疑惑を払拭するためにあるのだと言います。

そして最後はこのメリトクラシーが揺らぎつつあるということを指摘して本書は終わりです。豊かさのアノミーと、ハプニング的成功観の広まりで、野心や熱情を持たない人が増えているぞと。

 

以上が大まかな流れで、詳しい分析は個々の章でなされています。

私は最後のところが一番印象に残りました。メリトクラシーから降りる人が増えているというのは実感ある人も多いのではないでしょうか。中学生や高校生と話をしても、競争心を持つひとがそこまでいないというか、他でもなく私も中学1年の頃はそうでした(それがどう加熱され、刻苦勉励主義とガンバリズムを内面化していくかは別稿に譲りましょう)。

「嫌ならやめていいんだよ」「ムリしなくていいんだよ」「自分には自分の価値があるよ」という優しい言葉が大人たちからかけられるようになっているのではないかと思います。私も、無理をすれば不可逆的な傷を負いかねない時があると思いますし、それを子供たちに強要したいとは思いません。

ですが、競争から降りることで得をするのは誰か、と考えるとこのような言葉も安易に口にできないなと思うようになりました。メリトクラシーは素晴らしい制度です。門閥もしくは財力を持つ人により支配されたり、職業が固定されるような社会よりはよほど良いと思います。競争から降りる人が増えれば、ますます競争に乗る人が有利になり、結果的に本人たちのためにならないのではないかと思えてなりません。

高校の時体育教師が言っていたことが思い出されます。

「そうはいっても頑張るっているのは大事なことなんだよ」

と。競争すること、頑張ることがもう少し肯定されても良いのではないか、というのがこの本を読んだ私の結論です。