海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

社会と葛藤と宗教 ~堀一郎『聖と俗の葛藤』~

平凡社ライブラリーから出ている堀一郎の『聖と俗の葛藤』を読んだ。これは昭和45~48(1970~1973)年頃の、宗教民俗学者堀一郎の論考を集めたもので、平凡社ライブラリーによくあるアンソロジーに近い本だ。言い換えると『堀一郎セレクション』と言ったところか。

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堀一郎、1993『聖と俗の葛藤』、平凡社

本書はⅠ~Ⅴ部に分かれる構成をとっている。ⅠとⅡは宗教現象学や宗教社会学、Ⅲは日本の宗教、Ⅳは宗教と社会、Ⅴは自伝や岳父である柳田國男、またエリアーデとの思い出についてを語る。

私が気になったのはⅣの中にある「被抑圧感から逃避と攻撃へ」という論考。これは祭儀が民衆の攻撃衝動を昇華させる役割を持っているという内容である。議論としては宗教学などでスタンダードな方だろう。

「人間が社会をつくり、そこで社会的人間として社会科されていくプロセスにおいて、つねに遭遇するのは、個人の欲求充足の希望と、そのために必然的におこる文化的、人間関係的な衝突と妨害である」(本書254ページ)

そして祭儀は「聖なるもの」の名において攻撃的志向を正当化し、中和するものであると、クラックホーンを引用しつつ説いている。似たような議論は何度も聞いたことがあるので、宗教学者民族学者たちが度々話題にしてきたことなのだろう。

しかしなぜ私にとってこの部分が印象に残ったかと言えば、それは近ごろ祭儀においてすら攻撃的志向が認められなくなっているからなのではないか。いやもっと言えば、社会全体で攻撃的志向を発現させることができなくなっている、否定的にとらえられすぎているのではないかという懸念だ。

誰かを攻撃したり、陰口を叩いたりといったことはもちろんするべきではないのだが、昨今はそれがキャンセルカルチャーと結びついて、表現の自由の問題にまで発展してきている。つまり、高すぎる倫理意識が社会を支配するようになっているのではないか、と私は考えている。

倫理意識は社会で生きていくのに必要だが、それは抑圧でもある。必然的に攻撃的志向は鬱積していくものであり、「ガス抜き」は必要である。そのためにお祭り騒ぎがあり、合法的に鬱屈を晴らして、(ある程度の範囲内で)他人と衝突したり攻撃したりということが認められるわけである。

しかし、祭儀においてすら近年は倫理意識が入り込んでいるようにも思われる。祭りだからって羽目を外さないように、とか、暴力はいけないとか、人の迷惑にならないように、というようないい子ちゃんぶった考え方が蔓延しており、それはそれで平和なのだが、どこかエネルギーに欠けたものになっていると思う。

たしかに暴力や騒音のない世界はユートピアのように思えるし、日常的にそういったものに近づきたくはない。だがお祭りのときくらいはそれが許されるという常識を作っていかなければならない。言い換えると、倫理規範の適用の線引きを行っていかないと、この先どんどん「日常」側の倫理意識に侵食されてしまう。

ガス抜きせずに鬱屈をため込んでいった結果がどうなるのか想像もつかない。ああ、こんなことになるなら年に一度くらいバカ騒ぎをしていた方が安くついたのに、と後悔しなければならなくなるのは確かなように思われる。

高い倫理意識を持っていると思われる方々に向けて問うておこう。ひとが社会的動物である以上は必然的に衝突や葛藤が生じるし、攻撃的志向が溜まっていく。それをどうやって解消させていくつもりなのか。