海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

佐渡博物館の企画展「佐渡の年中行事」に行った

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3月中に探訪

佐渡博物館で2022年3月31日まで開催されていた展示に行った。

一言で言えばマンネリ化の気分を拭い去ることはできない。

ただ収蔵庫にあるからたまには展示するかくらいのノリで開催されたのだろうかと思ってしまうほどだ。

これは私が色んな博物館を巡っているからとか、年中行事とか民俗のことを調べているからそう思うわけではない。そこにあるのは先細りした佐渡の博物館の姿なのだ。

まず、佐渡の年中行事と言えば『新潟県史』資料編23をはじめ30~40年前に編まれた自治体史誌に詳しく載っている。今回の展示では、その行事で実際に使われた太鼓とか数珠とかお札とかとかが陳列されていた。

だがキャプションの説明は本などに書いてあることそのまんま。この数十年間で何か新しい発見や研究の進歩はなかったのか。そんなはずはない。既に分かり切っていることをただ述べて、年中行事というテーマで並べることに何の意味があるのだろう。

コンセプトでは「希薄になりつつある、人々の暮らしの豊かさの一端を思い起こしてもらえれば」と述べられているが、昔の道具をみて、昔のことを考えようねという、ごくごくありがちでありふれた能書きで、何らかのメッセージが込められているとは到底考えづらい。

 

要するに、熱量が感じられないのだ。

博物館を運営している人たちが、そこで調査や研究をしている人たちが、日々調査や研究を続ける中で、新しく分かったこと、広く一般社会の人に問うてみたいことをメッセージとして投げかけようという気が、伝わってこない。日頃からそんなことは考えてませんというくらいの気分でいるのではないかと、私には思える。

だから私は「小手先」でこの展示を開いたのではないかと、疑ってしまうのである。それが、マンネリ化と、トリビアリズムを生み、知識を得るだけの博物館体験になってしまう。

その行きつく先は、「ああ、あれね、もう知ってるから」「はいはい、年中行事ね」と、もう見たからいいやという世間からの反応である。

今回初めて見た人は良いのかもしれない。実際、ポストイットで感想を書くスペースがあって、「今まで知らなかった」とかいうようなコメントがいくつか散見された。

そんな言葉を見て博物館の人がああ開催して良かったと思うならば、そんな愚かなことはないと思う。同じような展示が続けばいつか飽きられて終わるのは目に見えている。

「またこれか」

 

自分なりにこの展示を変えるとするならば、コンセプトにある「近年の社会的、経済的状況の激変」の面である。年中行事が、どのような影響を受けて、あるいは廃れ、あるいは形を変え、いまどうなっているのか?に焦点を当てたい。

戦後復興、高度成長、燃料革命、過疎化、産業構造の変化、流通革命、マスメディアの普及、思いつくだけで年中行事に影響を与えた社会の状況はこれだけある。激変したから今はされてない、で済ませるのではなく、そこを粘り強く追いかける。変化のプロセスを探ることが、研究上の課題として求められているはずだ。なぜならこの部分に光を当てたものは自治体史誌でもあまりないからである。

もう本に書いてあることを、以前のことをただもう一度並べただけの展示はすぐに賞味期限が切れる。普段からこういう調査に研究に収集に一生懸命になっていれば、良い展示は必ずできるはずだ。

本記事の写真にある寒念仏の写真も、どこかで見たことのあるものだ。使いまわしではない、今どうなっているのか、カラーで、実際寒念仏をやっていた人の言葉つきで、展示していたら、何か変わっていたかもしれない。

 

最後に、学芸員資格を持っているだけで、博物館での実務経験などない私だが、技術的な課題を2点ほど述べたい。

1つ目は虫がいたこと。虫害対策をしてほしい。

2つ目はポストイットに来場者が色々書くスペースで、筆記用具にボールペンなどがあるのはいかがなものか。展示室内では原則鉛筆のみのはず。

その辺の配慮、そもそも監視員もいないことなど、やはりいい加減だなあという気がした。予算がないとか、人員が足りないこともあるのかもしれないが、最後はそこに携わる人の熱だ。もっと頑張って欲しいものだ。