海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

最近の鉱山祭のこと 祭をdesignするという思想

鉱山祭の批評シリーズ2本目。

鉱山祭は明治に始まって以来、長らく鉱山の労働者、そして町民の祭りという位置付けで続いてきました。昭和が終わると佐渡鉱山は休山となり、鉱業を前提としない街づくりが本格的に始まります。すなわち、観光業への本格的なシフトです。

既に昭和40年代より、相川町は急速に観光化を進め、鉱山依存からの脱却を始めます。その様子は同時代に小木を訪れた民俗学者宮本常一から批判的に見られるものだったようです。それでも観光客の数は年を追って増え続け、100万人時代に達します。

バブル崩壊後、坂を転げ落ちるように佐渡観光は低迷し、ホテル・旅館業は冬の時代を迎えます。もっともいわゆる殿様商売が続き、佐渡へは一度行っても二度はいかないのが普通という評価が世間に知れ渡っていきました。その反動は今なお続いていると言えます。

そして鉱山祭は次第に町民の祭りから観光イベントとしての性格をつけはじめ、2000年に入ってから「迷走」状態に入ります。

まず、名称が「金山祭」に変えられました。「金」が入っているから、目につくだろう、イメージが良くなり、知らない人が興味を持ちそうだ、という、極めて短絡的な考えの下、馴染みある伝統的な祭の名称がすげかえられました。効果があったのかは分からず、数年で鉱山祭、と元の名称に戻されます。ほどなくして、祭りは7月25、26、27日の三日間から、7月第4土日に縮小になりました。

そして最もひどいのが2008年の鉱山祭です。この年、伝統の相川のおけさ流しをやめ、分団の流しの人たちが全員浜公園近くでおけさパレードをやらされました。翌年は羽田商店街でやはり同じパレードで、しかも宵の舞を模したのか唄はアカペラでやらされ、まったく違う祭りになったかのような有様でした。露店は2008年が浜公園、2009年は江戸沢駐車場になりました。この頃、鉱山祭実行委員会は、「観光客を呼べない出し物はなくても良い」という高圧的で不見識な人たちで占められており、相川小のマーチングバンドには警護をつけない、というようなことを面と向かって言うような酷い態度でした。

さすがに不評が過ぎたのか、2010年から商店街に露店が並び、分団流しが復活します。しかしながら、羽田に並ぶ露店は道の片側だけになってしまいました。流しの数はそれまでと比べてぐんと減り、祭りなのに流しが全然やってこない、という激変ぶりにただただ呆れるばかりでした。「おけさ流し」の名称は客引きになると思ったのか、おけさパレードにつけられ、元の意味での「おけさ流し」には「祭り流し・山車流し」などという聞きなれない言葉があてはめられました。

これ以後、コロナ前の2019年まで、土曜日の夜に一町目でおけさパレード、日曜の夜に花火、おけさ流しは両日ともにわずかに流してくる程度、という構図が続きます。祭りの大きな骨格はもはや変わらず、パンフレットも、観光サイトのうたい文句も、毎年毎年使いまわしになっています。

私は、2000年から始まったこれらの迷走が、鉱山祭衰退の原因の一つと見て良いだろうと確信しています。みんなの祭り、から観光客の目線重視への転換、これが従来の祭りを変貌させてしまったと言えます。

この一連の実行委員会のやり方を、私はdesignと呼びたいと思います。みんなが作り上げていたものを、どこか高い所に集まっている人たちが自分たちのいいように作り変え、designしてしまおうという思想が彼らの根底にあります。それは今も変わっていないように思えます。

もともと鉱山祭と、その花形であるおけさ流しは、鉱山で働く人や町民が日頃の疲れを吹き飛ばし、熱狂的になって騒ぐという側面がありました。隣近所で集まり、一斗缶を叩きながらおけさ流しに興じるという、「民」謡の姿、民衆文化がそこにありました。

鉱山祭をdesignする人たちは、浮かれ騒ぐ民衆の姿が気に入らないと言わんばかりに、下劣だから一斗缶を使うなとか命令し、挙句の果てにみんなに並んでおけさを踊れ、唄はマイク無し、というセンスのかけらもない暴挙に出ました。

この、自らの意のままに上から作り変えてしまおうというdesignの思想は、名もない民衆のみんなが作り上げる祭りとは本質的に相容れない思想です。自分たちの利益になればよい、町民のことなど知らない、というような鉱山祭実行委員会、その背後にいる観光協会(いまは観光交流機構とかなってるようですが)の態度・思想は明確に誤りであると結論付けられるでしょう。

そして私が声を大にして言いたいのは、そういう人たちが今も何食わぬ顔をして無反省に佐渡観光をdesignしようとしている、ということです。若い人たちが集まり、楽しそうにやっているように見えるけれども、私には彼ら観光業界のやっていることは本質的には同じdesignの行為に見えてなりません。いやむしろ、若い世代はそんな昔の事情や経緯を知らないのをよいことに、無邪気にそのような行為をさせているように思えます。

上が変わっていないのだから、佐渡の観光業界は昔と体質は同じです。あるものを活かし、宣伝し、文化を盛り上げようという気はなく、自分たちの好きなように作り替えてしまえ、というdesignの思想がはびこっています。何よりも、そのセンスが私には理解できません。

名もなき民衆がみんなで作り上げ、本気で熱狂的になり、楽しいと感じている、そういう姿こそが魅力的なのであり、視覚的にすごいから、観光客がそう望んでいるからといって、並ばせて踊らせるなどというのは近代の悪しき考え方です。はっきり言って、正統性は前者にあります。

にもかかわらず、過去のことを振り返り反省しようともしない連中が、いまも佐渡の文化をdesignしようとしています。佐渡の色んな祭りが、鉱山祭のように食い荒らされてほしくない、と心の底から願っています。そしてコロナが終息し、昔のように騒げるようになったら、鉱山祭をdesignのくびきから解き放ち、またみんなの祭として作り上げていかなくてはなりません。

 

佐渡 #佐渡観光 #鉱山祭 #佐渡おけさ