海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

最近の鉱山祭のこと 民謡の本来の「文脈」

鉱山祭シリーズ。

民謡には本来それが唄われるべき場面、TPOがあります。仮にそれを文脈と呼ぶとしましょう。

民謡には数々の種類があります。例えば労働唄・作業唄では粉摺節とか田植え唄とかがあります。他には盆踊り唄、祝い唄などがあります。

私は、民謡が生きたまま受け継がれていくためには、こうした本来の文脈で唄い踊られることが必要不可欠だと思っています。そうでないものはもう死んでいます。「保存」のフェーズに入った民謡はもう死んでいるに等しいのです。

その意味で言えば、労働唄系は、その労働自体が消えてなくなってしまうのですから、保存されても致し方ないと言えます。文脈が焼失した以上はその民謡が受け継がれていくのは困難ですから、保存という処置に移行するのは仕方ないことです。

ですが、盆踊り唄は文脈それ自体を努力次第で受け継ぐことが可能だと思います。民謡は、本来の文脈の中でこそ活き活きと輝くものです。録音盤や、ステージの上での民謡はそれには遠く及びません。それらは民謡の魅力の半分も引き出すことができません。

佐渡おけさも同様です。実は正調佐渡おけさの形成には鉱山祭が深く関係しています。

元々遊郭で唄われていたおけさ節が鉱山での労働唄となり流行します。それが明治に始まった鉱山祭で、おけさ流しに発展。鉱山祭は全島からおけさ好きの集まる、町がおけさ一色に染まる祭になります。

そうして各地のバラバラなおけさ、節回しが異なるおけさが相川の鉱山祭でまじりあい、新たなおけさを生み、生成を繰り返します。そうしてできた幾万のおけさのうちの一つが今日の正調佐渡おけさです。

このあたりの事情は当時お雇い教師として相川にいた江南文三の紀行文に詳しいです。著作権が切れているので一般公開されています。

引用「十三日が相川町恩賜金記念日で町の有志の宴會が晝夜の二囘あるその翌日が鑛山祭です。
 鑛山で出來た町、鑛山で出來てゐる町、鑛山で食べてゐる町ですから、鑛山で東京の太神樂を招んで囃し立てるは勿論、町中の老若擧つて町中を踊つて歩くのです。唄はおけさ。島中の藝者が相川に集合して先頭となつて三味を引いて行く。それが幾組となく後から後から續く。太鼓、皷、笛、ブリキ鑵まで出る。馬車の喇叭まで出る。假裝のもの、印半纒のもの、浴衣のもの、多くは繰り拔いた窓のある編笠を目深にかぶつて。臨時の飮飯店が出來る。臨時の藝者の置屋が出來る。これが三日三晩續くのです

作家別作品リスト:江南 文三

 

ですから、我々相川の人が、おけさを受け継ぎ、発展させたいのであれば、鉱山祭のおけさ流しというおけさ本来の文脈に立ち返ることが必要なのです。鉱山祭なくしておけさなし。おけさなくして鉱山祭なし、という関係がそこにあります。

いまの鉱山祭実行委員会はじめ種々の業界団体はそのことが全く理解できていないにもかかわらず、おけさを売り物に観光客を呼び寄せようとしています。そうしておけさパレードなどというつまらない踊りだけのものを町の一か所でやって名物にしようと画策しているのです。

はっきり言ってこの状態では佐渡おけさは今以上に有名になることはないし、また発展もしません。そして、鉱山祭という本来の文脈を失えば、佐渡おけさはいよいよ「保存」のフェーズに入ることは間違いないと思います。

佐渡の観光業界、また文化財団やなんちゃらおけさ会などと称した団体は、口々に佐渡おけさを受け継ぐとか、伝統文化がと口にするくせに、彼らのしていることは全くそれに反することです。過去の人たちが作った遺産・貯金を食いつぶしているだけです。

一例を挙げれば、おけさ流しの方は唄も楽器も基本的にはアマチュアがやるもので、民謡団体に入っている人がやるようなものではありません。そして重要なのは子供もそれをやることです。地域で学び、受け継いでいくという最も理想的な構図があります。

その一方でおけさパレードにはそれがなく、演奏が立浪会だけ、後はみんな踊りだけなので、踊れる人は再生産できてもアマチュアの地方をやる人は二度と生まれ来ないか、数が減るしかないのです。

私は今回、友人Mから送られてきたある分団の流しの動画を見、そこで子供がおけさを唄っているのを見て、とても尊いと思いました。これがどれだけ価値のあることか分からない人は、はっきり言って伝統や文化などと口にする権利はありません。

佐渡おけさを本当に地域の宝と思い、受け継ぐべきと思うのであれば、文脈を整備し丁寧に受け継いでいくことが必要不可欠です。いま各種佐渡の団体がやっていることはそれと正反対です。過去の人たちによる遺産もすでに尽きかけています。おけさを生きた民謡として受け継ぐためにも、どうか本来の文脈を忘れないで欲しいと切に思います。