海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

相川音頭と謡曲『八嶋』

相川音頭は相川に伝わる盆踊り口説の一つだ。

 

相川音頭の歌詞には心中口説、謡曲百番くずし、その他数々の種類があるが、今回取り上げるのは正にあの

「ドッと笑うて立つ浪風の」

 

でお馴染みの「源平軍談」だ。

 

今回は源平軍談と、謡曲『八嶋』の歌詞に類似が見られるということを紹介したい。

 

まず源平軍談だが、実はこれは宇治川先陣から始まり壇ノ浦で終わるかなり長い曲である。

 

全てで五段からなるうち、お馴染み「ドッと笑うて」は五段目の真ん中にあり、ほとんど最後の場面である。

 

「ドッと笑うて」から始まる場面は「義経弓流し」という。大まかにストーリーを説明すると、義経が海に弓を落としてしまい、わざわざ危険を冒して取りに行くという話だ。

 

実際に源平軍談を読んでみよう。

 

「ドッと笑うて 立つ浪風の

荒き折ふし 義経公は

いかがしつらん 弓取り落とし

しかも引く潮 矢よりも早く」

 

ドッと何が笑ったのかは意見が分かれるところなので近日中に話題にします。

 

さて、波風が荒い時、どうしたことか義経公は弓を落としてしまった。しかも引く潮が矢よりも早く、

 

「波に揺られて 遥かに遠き

敵に弓をば 渡さじものと

駒を波間に うち入れたまい

泳ぎ泳がせ 敵船近く」

 

弓がどんどん遠くへ行ってしまうが、義経はそれを敵に取られまいとして馬を海に入れて取りに行く。泳いでいるうちに敵の船の近くに来てしまった。

 

「流れよる弓 取らんとすれば

敵は見るより 船漕ぎ寄せて

熊手取りのべ うちかくるにぞ

すでに危うく 見え給いしが」

 

流れる弓を取ろうとすると敵が見つけて船を近づけ、熊手(武器)で義経を打とうとする。義経危うし!

 

「すぐに熊手を 切り払いつつ

ついに弓をば 御手に取りて

元の渚に 上がらせ給う

時に兼房 御前に出てて」

 

義経は敵の熊手を切り払い、弓をその手に取り上げて元の渚に帰ってきた。

その時、臣下の兼房が義経の前に出て、

 

「さても拙き 御振舞いや

たとえ秘蔵の 御弓にして

千々の黄金を のべたりとても

君の命が 千万金に

変えらりょうやと 涙を流し

申し上ぐれば 否とよそれは」

 

兼房は諌める。なんと愚かなことですか。例えどんなに大切な弓であっても、義経公の命は千万の黄金にも変えられないものですよと。兼房が涙を流して申し上げると、義経はいや違うんだと言う。

 

「弓を惜しむと 思うは愚か

もしや敵に 弓取られなば

末の世までも 義経公は

不覚者とぞ 名を汚さんは

無念至極ぞ よしそれゆえに」

 

義経は言う。自分が弓を惜しんで取りに行ったと考えるのは愚かである。もし敵に弓を取られたら、義経は弓を落としてしまうような不覚者だぞと名をけがしてしまう。そんなことは無念極まりないことだ、と。

 

「語り給えば 兼房はじめ

諸軍勢みな 鎧の袖を

絞るばかりに 感嘆しけり」

 

義経がそう仰ると、兼房はじめ軍勢一同、鎧の袖が絞れるほど涙を流して感嘆したのであった。

 

ここまでが「義経弓流し」であり、皆さんが知る相川音頭はほぼ100%これといって過言ではないでしょう。

 

では次に謡曲『八嶋』に出てくる弓流しの場面を見てみよう。 

後ジテ、源義経の亡霊が甲冑姿で現れ、かつての合戦の有り様を繰り広げる。

 

シテ「其時何とかしたりけん。義経弓を取り落し。浪にゆられて流れしに」

地「其折しもハ引く汐にて。遥かに遠く流れ行くを」

シテ「敵に弓を取られじと。駒を波間に泳がせて。敵船ちかくなりし程に。」

地「敵ハこれを見るよりも。船を寄せ熊手にかけて。既に危うく見え給ひしに。」

シテ「されども熊手を切り払い。終に弓を取りかへし。元の渚に打ち上れば。」

地「其時兼房申すよう。口惜しの御ふるまいやな。渡邉にて景時かま申ししも。これにてこそ候へ。たとひ千金をのべたる御弓なりとも。御命にはかへ給うべきかと。涙を流し申しければ。」

 

どうですか皆さん。私はこれを見たとき「盗作だ!」と思いました。

 

さてその後

 

地「……いやとよ弓を惜しむにあらず……語り給へば兼房。さて其外の。人までも皆感涙を流しけり」

 

ここまでが義経弓流しの場面である。

 

人に寄るかもしれないが、明らかに歌詞が共通していると感じる!

 

源平軍談が作られたの江戸時代の話なので、相川音頭が『八嶋』を意識したか、もしくは『八嶋』と題材を同じくしたかのどちらかと考えられそうだ。

 

能楽紹介サイトである「the 能 .com」には、一応題材を平家物語としている。

 

がしかし、(ここでは割愛します!)『平家物語』では弓流しの場面はさらりと書かれており、詞章の類似もあまりないように思われる。

 

さらに、平家物語の場合は弓をわざわざ拾いに行った理由が、

 

弓の名手である伯父の為朝のような弓ならわざとでも落として拾わせるものの、こんな弱々しい弓を敵に取られて敵に

義経の弓ダセーーー!」

と笑われたら口惜しいことよ。だから命に代えてでも取ったんだ。

 

ということであり、『八嶋』、源平軍談とは理由が微妙に違う。八嶋にも源平軍談にも、為朝の名は出てこない。この二つは、弓を落として名を汚して無念だから拾いに行ったのだ、という理由である。

 

以上のことから考えると、

❶源平軍談は『八嶋』を意識して作られた。

もしくは、

❷『八嶋』も源平軍談も平家物語ではない、同一の別の史料を基にして作られた。

 

のどちらかということだろう。

 

そうすると源平合戦を述べた軍記や、『八嶋』の作者が理由をわざわざ後付けに設定した背景なども検討する必要がある。

 

 

 

……という構想はあるのですが、時間が取れずに調べるに至っていません。なので今回はここまでです。

 

史料の提示等上手くいかず、疑わしいところもあったかと思いますが、おいおい補っていくつもりです。

 

今回も長文でしたが読んでいただいてありがとうございました。いずれしっかりこの話題について考えていく所存です。

 

〜参考文献〜

寶生九郎著「八嶋」わんや書店 昭和29年

「the 能 .com」http://www.the-noh.com/jp/plays/data/detail_019.html

平家物語岩波文庫←手元になくて何巻か忘れた、いずれ提示します。