上寺町に残る石造物群 前篇
佐渡相川には「寺町」という町が上中下の三つあります。
そのうち下寺町、中寺町は今でも寺院がいくつかあります。
一方、上寺町は既に明治時代にはほとんどの寺院が退廃状態にあったようです。
今でも上寺町には墓や石造物が残っています。
先月のある晴れた日に私は2度に分けて上寺町を探訪しました。
まず上寺町とはどこにあるのか?と申しますと、上寺町は次助町と諏訪町の南東側に位置します。
無宿人の墓というのはこの覚性寺にあったもののようです。
上寺町と次助町との境はよくわかっていませんが、一応覚性寺も上寺町の寺院だったと理解しています。
さてこの無宿人の墓を尻目に細い山道へと向かいます。
これが金北山へ続く道です。荒れていましたが、登り続けると茶屋平で上相川から鶴子へ向かう古道と合流します。そこから青野峠、金北山へ登ることができたようです。
金北山には登山道が無数にあったようです。その山道には目印の石仏が並んでいたようですが、今では埋もれ去ってしまっていると思います。茶屋平でも一つお地蔵さまが出土したと聞いています。
さてその金北山道はだいぶぬかるんでいて大変でした。道には石がごろごろと転がっています。
素人目にはその石が石垣に使われたものなのかどうかはわかりませんが、このように石臼と思われるものもあります。右手には妙伝寺蹟があるはずですが、妙伝寺へと続く石段は見つけられませんでした。
察するに石垣が崩れて道まで飛び出しているのだと思われます。
しばらく登ると法久寺の碑があります。
題目の左側「金銀山繁栄」と彫ってある、気がします。
さてこの法久寺の石碑を直進すると金北山に行けるのですが、だいぶ道が荒れており登ることは断念しました。道が急だとも聞いていましたので(あと、何もなさそう)。
石碑を左折すると、、、
固定ツイートでも紹介している記録上佐渡で最も古い心中の墓です。
享保八年(1723年)の春、伊右衛門とはつはこの法久寺の墓地で心中死したと記録にあります。
この二人の心中に至るまでの物語が、およそ100年後の化政期に作られた相川音頭『伊右衛門はつ心中紫鹿子』、『兵十郎花世心中妹背のづくし』に唄われています。
『梅にうぐいす柳に燕 恋の歌詠む門田のかわず』で始まる詞章は今は源平軍談に取って代わられていますが、明治の初めころまでは盆踊りの主流はこうした心中ものであったようです。
相川町には他にも「比翼塚」(下寺町)「情死の墓」(下相川)といった心中の墓が残っています。
とりわけ古いこの伊右衛門とはつの墓も、表面が剥離してかなり傷んでいます。
無数の墓石群が
あるじを失った墓が
それでもまだ、この林の中に残っているのです。
誰が何と言おうと、相川は石の町です。
後篇へ続く……