海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

上寺町に残る石造物群 後篇

上寺町探訪の記録の後篇です。

 

前篇では妙伝寺跡、法久寺跡を主に紹介しました。

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後篇は西光寺跡方面でお送りいたします。

次助町を鉱山の方へ向かって歩くと右側に石垣、左側に万照寺の墓地が見えてきます。

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この右手の石垣は「大塚部屋」の跡です。

 

近代佐渡鉱山では、全国のその他の鉱山・炭山同様に部屋制度が採用されていました。親方に子方が従属して働く形式です。

 

佐渡鉱山には安田、鈴木、大塚、佐藤、大田などの部屋があり、ここにあったのは大塚部屋です。

 

この大塚部屋というのは元々「南畑部屋」を名乗っており、親方の南畑平吉は長野県南畑出身とも言い伝えられています。

 

この部屋の労働者は長野県出身者が多かったとも言われています。そもそも佐渡鉱山での労働者は新潟や長野からの労働者が多く、佐渡の人が鉱山で働くようになったのは昭和に入ってからだと、郷土史家の磯部欣三先生はご自身の調査から考察されています。

 

さて「ナンバタ」といえば荒くれものやゴロツキを指す代名詞とされていますが(今使う人はいませんが)、この南畑部屋に属する労働者はしばしば鶴子沢根方面に遊びに出て狼藉を働く気象の荒い人たちであったとされています。

 

この部屋に限らず、鉱山労働者にはどこかそういう性格があって、しかも在方出身者ではないことから、おそらく佐渡の人たちは鉱山労働者をどこか自分たちとは違う人のような、そんな目で見ていたのかもしれません。それは磯部先生も著書で触れられています。

 

よく、世界遺産関係の場でゴールドラッシュという言葉を耳にしますが、こうしたヒトの動きは何分江戸時代初期に限った話ではなく、部屋制度があった近代以降も、島外からたくさんの労働者が出稼ぎに来ていたことが想像できます。田中圭一先生の『島の自叙伝』でも、そうした方のエピソードがあったかと思います。そうした方々の子孫は今も相川で生活しているわけです。相川町というのは全く在郷とは構造が異なる町なのであります。

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その大塚部屋跡を通過すると、再びところどころ崩壊した石垣が現れます。

 

上寺町です。

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南無阿弥陀仏」の石碑は浄土宗西光寺跡の前にあります。

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西光寺へと至る石段は、木に侵食されています。

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西光寺跡はテラス(平らにならされた土地)が広がっています。

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道沿いにも墓石が並んでいます。

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北沢選鉱場を「ラピュタみたい」という声を近年耳にしますが、私には苔やシダに覆われた墓石の方がよほどラピュタの世界を彷彿とさせます。侵食というよりも、調和といったほうが正しいかもしれません。

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苔むした石段が、ただただ美しい。おそらくは木の根が地下に伸びることで曲がったり崩れたりしているのでしょうが、それでも美しいです。

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臨済宗興禅寺、浄土宗源昌寺の跡はよくわかりませんでしたが、この石段の先にあったようです。興禅寺の場合は廃仏毀釈を免れて大正年間まで存続していたようですがどうでしょうか。臨済宗佐渡では珍しい方です。源昌寺は上寺町では最も古い寺院で、慶長12年(1607)の開基です。

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最も印象に残ったのは日蓮宗妙法寺跡の歴代の墓地に残るこの板碑でした。

線彫りの地蔵菩薩が彫り付けてあります。下町でもこれほど繊細で芸術的な石造物はないと思います。

 

妙法寺跡には比較的墓が多く、広く残っています。大正14年山形県の小国町に移転したということですから、こちらも廃仏毀釈以後残った寺院ということになります。

 

この妙法寺一帯は斜面が急ですが、まだまだ上に登っていけそうな感じでした。どうも前篇で紹介した法久寺の墓地と接続していると思われますが、また次回。

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倒木等あり、あまり道の状態がよくありませんが、我こそはという方はぜひ上寺町散策を「堪能」していただけたらと思います。遭難の心配はそれほどないと思います。

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私が探索した地域はごく一部だと思います。推測ですが、上寺町は上相川にも続いているはずです。古地図等ではそういった道は確認できなかったので推測の域を出ませんが……

 

以上で上寺町の石造物探訪の記録はお終いです。

 

次回予告(?)→コレラ地蔵

 

【参考文献】

相川町史編纂委員会『佐渡相川の歴史 資料編八相川の民俗Ⅰ』1983

磯部欣三『佐渡金山』1992、中公文庫

佐渡市教育委員会佐渡金銀山遺跡調査報告書17『佐渡金山遺跡(上寺町地区)分布調査報告書』2014