床屋さんが教えてくれた
10月19日は相川総鎮守善知鳥神社の例祭であった。
小六町は隣の石扣町と共に獅子組を出している。
昨年、小六町にある床屋が店じまいするということをツイートした。
床屋の店主は祭り好きで、祭りが近づくといつもその話をしてくれた。
その昔は『暴れ獅子』といい、門付けの時にわらじ履きのまま上がりこんだという。
わざわざ泥をつけてわらじを汚してから上がり込んだこともあるそうだ。
家の人は皆そうしてついたわらじの足跡を見て、
「獅子が小判を落としていってくれた」
と喜ぶのであったそうだ。
また、相川の伝統的な建築様式は京風の町屋造りで、土間が通りから家の裏まで突き抜けるものが主であり、門付けの際は一直線に裏まで通り抜けていったという。
こうした伝統的な町屋は今でも三町目の松栄家はじめ古い民家などでわずかに見ることができる。小六町でも数軒だが通り土間の家を見ることができるし、各所のリフォームした家にその名残が見られる場合もある。
獅子の胴はそのため、以前は長かったというが、やがて当世風の家が多くなるとその必要もなくなり、床屋さんら青年中で新調する際に短いものになったという。
いま、小六町には獅子頭が三つあるが、先代のものは沢根の職人の手による欅の一刀彫である。
欅は固い木材で、太鼓の胴にも使われたりする。丈夫で、今でもこの獅子頭は使われている(昭和20~30年代の作だったと記憶。先々代は大正だった気が)。
いったい沢根はこうした工芸職人の多い町であったらしく、佐渡蝋型鋳金の大家こと初代宮田藍堂も沢根町の人である(佐々木象堂はこの弟子にあたる)。
佐渡の獅子頭や仏像などを調べたら一定数、沢根の職人の手によるものが出てくるのではないだろうか。
塗師は相川の人である。相川もまた、職人の町であった。おびただしい町民の需要にこたえるために、そうした職人が数多く住んでいたのだろう。
小六町はまた、旅籠の町でもあった。
床屋の店主曰く、小六町の海側にえびすや、蝙蝠屋、泉屋、橘屋といった旅館が並んでおり、今でもわずかにその面影を残している。
すなわち、二階が張り出した「出桁」とか「セガイ」とかいう、遊郭によくみられる造りになっているのである。これは和船建造技術の応用らしい。
江戸時代初期の小六町が遊郭街であることは古文書等によっても明らかであるが、それらはみな水金町に移転していて、江戸時代後期になると既に遊郭街の性格は失っていたとみられているが、もしかしたら私娼のような形でそうした性格が存続していたのかもしれない。
そういえば、浜に抜ける細い道を昭和のころまで「アカミチ」とか「アカセン」とか呼んでいたという。下相川の人は、子供のころ水金を指して「アカセン」と呼んでいたというから、その名残なのか。
床屋さんが子供のころ、旅館には鉱山で働く人たちが下宿していて、床屋さんも大立竪坑に入れてもらったことがあるという。真夏なのにコートを着て、親には内緒だよと言われて。
その当時、北沢の選鉱場の対岸には鉱山の浴場があった。
床屋さんなど小六町の子供は入浴券をもらい、入りに行ったが、浴槽まであと一歩のところで、「なんで子供がおるのんや」と冗談めかして大人に言われ、帰ってきたという(誰だそんなことをいうのんは、と後で券をくれた人は言っていたらしい)。
因みに祖母もよくこの浴場を利用していたらしい。
一家に一つ風呂がある時代でもなし、みんな銭湯を利用していたという。
小六町に一軒、紙屋町にも一軒、石扣町に二軒、塩屋町にも一軒と、数百メートルの間に時代は多少前後すれど、わかっているだけで5軒も銭湯があった。それほどたくさんの人が相川で生活していたのである。
古い集合写真には、鉱山で働いていた人や無名異焼の陶工が獅子組に出ている。
そうした人が単に住民として多かっただけなのだろうか。
似た話は相川の民謡団体、立浪会にもある。
立浪会の初期の会員には鉱山職員や陶工が多かったそうだ。
どこかしら、山で働く人や陶工にそうした芸術や芸能を好む傾向があったのではないかと私は思うのである。
いま大工町から出ている太鼓組も、元は鉱山の大工が出していたものである。豆まき、長刀、棒、御太鼓、春駒、これらは江戸時代銀山大工の出したものらしい。
鉱山祭のやわらぎや、おけさ流しも、鉱山の職員が担っていたものだ。
確証はないけれど、愉快なこと、にぎやかで楽しいことを好むような気風が、山で働く人たちにはあったのかもしれない。
獅子、としてみれば確かにお神輿さんの行く道や家々の厄祓いをする役割がある、くらいの説明で終わってしまう。
だが、小六町獅子組・石扣町獅子組として細かく証言や残された記録を見ることによって、かつての相川町の光景に少しでも迫ることができるのである。
「祭」は、奥深い。
だからやめられないんだなこれが。。。