海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

魚津埋没林博物館と米騒動発祥の地(R5.5.2)

富山県魚津市の埋没林ミュージアム。埋没林とは太古の昔に何らかの原因で土砂に埋没した樹木がそのまま保存されて残っているもので、魚津の浜の地中からいくつも発見されて天然記念物となっている。通常であれば腐って消えてなくなりそうなものだがなぜか魚津の海底にこのようなものがある。それはなぜかというと立山から流れる冷たい地下水がこのあたりから湧き出て、温度が低く保たれているかというのが一説のようだ。この展示水槽は底張りがなされておらず、つまり底面はそのまま発掘当時の砂地で、いまも地下水が湧き出ている。そのためか気泡がときおり下からボコっと湧き出てくる。

埋没林ミュージアムの外観。五箇山の合掌造りのような形をしている。

屋上から見える立山連峰。いつ見ても雄大な景色だ。

近くにある米騒動発祥の地。実は小規模な米騒動、つまり女衆が問屋に押しかけて米を他国に売るなと要求するデモンストレーションはちょくちょく起きており、半ば慣習化していたようだ。吉川弘文館の『街道の日本史27 越中能登と飛騨街道』によると、富山の漁村では伝統的に施しを求める哀願運動というのがなされていて、大正7年のものもそれと同じ「いつもの騒動」だったのが高岡新報などマスメディアに声高に喧伝されたため女一揆として全国に波及したのであった。

ちなみに明治22年から翌年にかけては珠洲飯田、能生、柏崎、佐渡相川でも連鎖的に騒擾が起こっており、同書によると環日本海のネットワークで関連があったのではないかという指摘がある。ご存じの通り佐渡米騒動といえば明治23年の相川暴動のことで、大工町の小川久蔵など鉱山労働者がリーダー格となって暴動が発生、外海府、沢根方面のまで襲撃された大変な騒動となったのであった。これも政党間の対立などの背景事情が色々と騒がれているが、環日本海で連鎖的に起こった一連の暴動という文脈でとらえるとまた見方が変わってくる。そこにどのようなメディアなり媒体の影響があったのか、など。いつも言っていることだが、このような考え方は他地域の郷土誌などを見てマクロ的に見なければ絶対に気づくことができない。いち地域の郷土史ばかり勉強していてもよくないという当たり前の事実を、大学時代の自分に教えてあげたいなあ。

なお、相川暴動の首魁、小川久蔵の家の跡は相川大工町に、久蔵をしのぶ地蔵は中寺町の瑞仙寺の境内にあり、その地蔵は相川の町の念仏・題目講中の寄進により建てられたものである。ぜひお参りしてみてください。