海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

小学校・中学校で佐渡の民謡を教えるべきか

佐渡の小中学校の運動会ではグラウンドで佐渡おけさを踊る」

ということがしばしば独自の学校文化として語られる。

これに限らず、義務教育課程で佐渡の民謡を教えている学校は少なくない、というかほとんどすべての学校でそういう時間を設けていることだろう。

こと相川音頭、佐渡おけさの本場たるご当地相川では、小学校は踊りを、中学校はパート別に地方と踊りを数コマかけて習い、「宵の舞」「鉱山祭」などといった本番まで設けられている。

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しかし習ってきた身からして、そして相川小で教える側に回った身からすると、こうした義務教育課程での民謡の取り扱いには違和感がある。

まず、民謡は地域の大切な伝統文化であり、それを継承することは良いことだと地域の大人たちに共有されている。加えて、学校で郷土教育を行い、郷土愛を育むことが大事なのだと文部科学省(だか総務省だか知らないが、とにかく「お上」)から提唱されていることもあり、学校の総合の時間などで民謡を教えることは良いことで、推奨するべきだとされている。

しかし私はそうは思わない。なぜなら、民謡のわざを受け継いでいくべき基盤はあくまで地域社会にあり、学校ではないと考えるからだ。民謡は学校で習って覚えるのではないのだ。

一例を挙げれば、佐渡おけさの地方や踊りは相川の場合夏の鉱山祭りに向けて各分団が流しを出すが、それに向けた練習でかつては子供たちが地方を習い、親の真似をして踊るのがふつうであったと記憶している。たとえそれが戦後から平成前半頃までの期間限定の文化であったとしても、である。

他の文化も基本的には夏の盆踊りで踊られ、唄われるもので、それが文化の継承の場であった。

いま、それを地域社会で執り行い、そのような場を用意する、ということが困難になったからといって、学校教育の中にこれを取り込んだとしても、それは延命処置でしかないと考える。

相川小で習うものの中には「やわらぎ」もあるが、これも延命処置でしかないことは明白である。それを習った人の中に、今やわらぎの担い手になっている人はいないし、一節を唄ったりして楽しむ人もまずいないと思う。学校での民謡教室は文化の継承にはなっていないのだ。

やわらぎだけではない。佐渡の民謡界で最も有名かつ正統性を持つ立浪会ですら、近年人手不足に悩まされており、歌い手はよその民謡団体から助っ人を読んでいる。おけさの笛を吹ける人も歌い手も三味線も一人ないしは二人しか残っていないのだ。十年以上にわたり(もっとか?)小学校で民謡を教えているのに効果が出ていないことは明白だと思う。その理由は、学校教育の民謡の講義時間と反比例するように、盆踊りや鉱山祭などの行事で民謡が唄われ、受け継がれる機会が減っているからだ、と私は思う。

他にも問題点はあって、例えば教育は原則的に平等に行われるものだから、相川中学校区であっても金泉や二見など佐渡おけさを年中行事の中で踊らない地域も存在する。そのような地域の子弟であっても、カリキュラムにある以上は教わり、できるようにならなければならない(別に成績に直結はしないのでできなくても問題ではないのだが)。

しかし、例えば七浦なら七浦甚句があるし、別に相川音頭や佐渡おけさは彼らにとって伝統文化か?というと必ずしも伝統文化とは言えないのではないか。地域には地域の独特の文化があるが、学校教育はその多様性をむしろ無くし、平準化させる方向に力がはたらくのではないか。

したがって、学校教育で民謡を教材にすることに私は否定的であるが、しかし全てやめてしまえとは思わない。冒頭の運動会の話のように、佐渡で育つ子がどこかのタイミングで代表的な民謡の踊りを教わり、100%とは言わなくとも90%くらいの島民が踊れるということは特色があって良いと思う。

だが、私が言いたいのは地域社会での伝承の場を用意し、それを受け継ぐことが最終的な目的であるということだ。そのような場は社会交流の場でもあり、単なる民謡の技術の継承以上の意味が、大人にとっても、子供にとっても存在する空間なのだ。

だから、民謡が大事なのは分かるのだが、だからといってそれを学校教育に「外注」するのは方策として間違っていると言いたいのだ。まず学校の外の、自分たちの社会で伝統を受け継ぐ空間を整えていくことが先決なのである。

なぜことさらこれを強調したいのかというと、学校の教員に対して過度な期待をかける人がいるからである。教師には義務教育のカリキュラムを教えるという仕事があり、それを全うするのに忙しいことは近年「#教師のバトン」などの運動で顕在化してきている。加えて昨今のコロナの対応もある。

はっきりいって、地域社会はもうこれ以上学校教育に何かを求めるのはやめるべきだ。お上が地域との協働を、とスローガンを掲げるのかもしれないが、ひとまず現場を立て直してやることが良いように思われる。自分たちは自分たちの文化を教える場を別に作ればよいのである。学校の先生が乗り気でないことを嘆き、憤る前に自分たちがやるべきことがたくさんはずだ。

 

…………最後に、大学の社会学の講義で先生が仰っていたことばを紹介して小論を締めくくろう。

社会学って面白い学問なんですよね、でも面白いからと言って義務教育に入れたり必修にしちゃうと、嫌いになる子が出てきちゃうんだよね~」