北陸三大祭り 三国祭(R5.5.20)
北陸三大祭りのひとつ。三国神社の祭礼で山車や神輿が三国の町を回る。三国は町並みが非常に良い。しかも広くて回り切れない。
これが三国神社。すごい人でしょう。今年は山車が出る中日の20日が土曜日だったため非常に大混雑。警備も厳重でした。雑踏事故を防ぐためにね。
これが大神輿。年季の入った神輿で、1トンくらいはありそうだ。さすがに担げないとみて台車は関西みくに会の寄贈。ハンドル・ブレーキもあり特注品であろう。引き手は三国中学校の生徒たち。
これが人手で担がれる舟神輿。30人の3交代で担いでいるそうだ。これも重そうだ。大神輿、舟神輿が二番山車と三番山車の間にきて、お祭りの行列が1日かけて三国を回る。さすが北陸三大祭りだ。
お神輿の行列。
夜は高張提灯の先導で山車が神社へ戻ります。
これがまたすごく幻想的な光景で、次来たら夜まで最後まで見たいと思いました。今回は夜行バスの関係で早々と撤退。とはいえ丸一日お祭りにいたので疲れた。
三国の町とお祭りがとてもよく似合う。
この鐘楼の土台は三国石かな。三国石は有名な石で加工しやすい。足羽川の流域で採れて三国から北前船に乗り全国へ運ばれた。佐渡相川にもある、有名なのが大安寺の大久保長安の石塔だ。
三国で有名なのが「かぐら建て」という建築方法で、妻入りと平入りを合体させたような構造をしている。三国にしかないらしい。町並み保存活動にも力を入れており素晴らしいと思う。三国へ視察にぜひ来るべきですよ。
越中八尾曳山祭(R5.5.3)
4月に越中八尾に行ったときにこのお祭りのポスターを見ていきたくなったので訪問。昼間は糸魚川など行っていたので夜だけ。提灯山はとてもきれいであった。
八幡宮に続々と宮入りする提灯山。わっしょいわっしょい坂の町八尾を引き廻していた。しかし大変そうだ。人手不足なんだろうなあ。「止まるぞ!!」という怒号も飛び交うくらい坂を上るのキツそうだった。2トンくらいあるでしょこれ。
提灯山に飾り付け中の曳山。昼間の曳山も見てみたい。あと半纏がかっこいい。半纏には半纏用の生地や意匠が伝統的に存在しており、それを無視して作ると急に安っぽさが出てしまう。ここ八尾はさすがに粋であった。
先導する地区の役員と高張提灯。「自治会長」とか書いてあった。ちなみに、前回おわら資料館でおわら節を歌っていたおじさんも観測。
豪華な屋台に見とれて夜遅くなってしまいました。
北前船寄港地・富山東岩瀬(R5.5.3)
北前船寄港地、東岩瀬は少し立ち寄っただけでした。
南砺市・福野夜高祭(R5.5.2)
富山県南砺市の福野夜高祭り。夜高行燈というものを作り引き廻していた。御神燈と書いてある四角い灯籠に、「つりもん」という色とりどりの灯籠を下げるのだそう。ちなみに、「御神燈」と書いてある側には足をかけて登ってはいけないんだと、案内所(?)のおじさんが言っていたが、実際には若い衆はお構いなしに上って騒いでいた。反対側には「○○町氏子」などと書いてある。威勢の良い若者たちの福野夜高節、「よいやさー!」という掛け声、笛太鼓のお囃子は非常に壮観。見ているこっちも元気をもらえた。人出もすごかった。
駐車場がどこもいっぱいで、整理係の人にどこか別のところはないか聞いたら「だから~学校行くか~××(覚えてないけどなんかの施設)行くか~」とだけ返事があった。同じ質問を何度もされてうんざりしているのであろう。ドライバーの先輩が駐車場がなければ帰ろうかなあというので血眼になって駐車スペースを探したところ幸いに見つかったのでそこに駐車。いやーよかったよかった。
色んな町内の行燈が運行。手作り感あふれる祭り案内パンフレット・マップも非常に良かった!こういうのだよ。鉱山祭や相川祭も、わかる範囲でいいから流しや神輿のルートをチラシで配ったり、旅館などに置いておくだけで訪問客には助かるのではないかと思う。何時にどこに、大まかに決めておくだけでよい。祭りというのはたいていが出たとこ勝負で決まっていくのだ。それがわからない人、時間通りでないことに腹を立てる人は祭りを見に来る資格はない。とはいえスケジュールが決まっていると色々周囲も助かるというのもある。
笛太鼓のお囃子。これも粋でよかった。中高生くらいの子たちがやっていた。
行燈がお参りする神明社。
深夜になると行燈どうしが喧嘩するそうだ。壊しあい蹴り合いで、それがこの祭りの見どころなんだそうだ。しかしさすがにそんな夜遅くまで先輩を突き合わせるわけにはいかないので、途中で退却。それでも面白かった。次は喧嘩も見たい。聞けば今年喧嘩の最中に行燈が倒れてけが人が出たとか。大丈夫かしら。でも外野が危ないからやめさせろとか無責任なことは言うものではないと思う。そういうのは当事者に任せればよい。
魚津埋没林博物館と米騒動発祥の地(R5.5.2)
富山県魚津市の埋没林ミュージアム。埋没林とは太古の昔に何らかの原因で土砂に埋没した樹木がそのまま保存されて残っているもので、魚津の浜の地中からいくつも発見されて天然記念物となっている。通常であれば腐って消えてなくなりそうなものだがなぜか魚津の海底にこのようなものがある。それはなぜかというと立山から流れる冷たい地下水がこのあたりから湧き出て、温度が低く保たれているかというのが一説のようだ。この展示水槽は底張りがなされておらず、つまり底面はそのまま発掘当時の砂地で、いまも地下水が湧き出ている。そのためか気泡がときおり下からボコっと湧き出てくる。
埋没林ミュージアムの外観。五箇山の合掌造りのような形をしている。
近くにある米騒動発祥の地。実は小規模な米騒動、つまり女衆が問屋に押しかけて米を他国に売るなと要求するデモンストレーションはちょくちょく起きており、半ば慣習化していたようだ。吉川弘文館の『街道の日本史27 越中・能登と飛騨街道』によると、富山の漁村では伝統的に施しを求める哀願運動というのがなされていて、大正7年のものもそれと同じ「いつもの騒動」だったのが高岡新報などマスメディアに声高に喧伝されたため女一揆として全国に波及したのであった。
ちなみに明治22年から翌年にかけては珠洲飯田、能生、柏崎、佐渡相川でも連鎖的に騒擾が起こっており、同書によると環日本海のネットワークで関連があったのではないかという指摘がある。ご存じの通り佐渡の米騒動といえば明治23年の相川暴動のことで、大工町の小川久蔵など鉱山労働者がリーダー格となって暴動が発生、外海府、沢根方面のまで襲撃された大変な騒動となったのであった。これも政党間の対立などの背景事情が色々と騒がれているが、環日本海で連鎖的に起こった一連の暴動という文脈でとらえるとまた見方が変わってくる。そこにどのようなメディアなり媒体の影響があったのか、など。いつも言っていることだが、このような考え方は他地域の郷土誌などを見てマクロ的に見なければ絶対に気づくことができない。いち地域の郷土史ばかり勉強していてもよくないという当たり前の事実を、大学時代の自分に教えてあげたいなあ。
なお、相川暴動の首魁、小川久蔵の家の跡は相川大工町に、久蔵をしのぶ地蔵は中寺町の瑞仙寺の境内にあり、その地蔵は相川の町の念仏・題目講中の寄進により建てられたものである。ぜひお参りしてみてください。