海鳴の記

お祭り見物が趣味のディレッタント。佐渡民謡の担い手です。

奥三河の花祭を見学(R4.11.26-27)

民俗学界隈の人ならおそらく誰でも知っているであろう、奥三河の冬の祭りといえば、そう花祭である。花祭とは霜月神楽のひとつとされ、愛知県・長野県南部・静岡県(いわゆる三信遠地方)にまたがる天竜川水系の集落に伝承されている。霜月神楽とは読んで字のごとく旧暦の霜月に行われる神楽で、ちょうどこの頃冬至を迎え、これから日が長くなり、徐々に生命力が回復していく、そういう意味を持った祭りであると、大学の講義で習った記憶がある。

この花祭の起源については諸説あるようだが、中世にこの地に入植した開発領主が村々の共同で始めた神事に、熊野・伊勢の修験道と、仏教の修二会などが混然一体となった大神楽が成立したのが初めらしい。その大神楽は古くは七日七夜かけて行われるという、非常にコストのかかるものであったため、300年間で10回した行われた記録がないそうだ。そのダイジェスト版というか、コンパクトにした形としてできたのが花祭なのだという。なお、この解説は講談社学術文庫早川孝太郎『花祭』の巻末の久保田裕道氏の解題を参考にさせていただいた。

花祭はいま愛知県の北設楽郡東栄町豊根村と長野県の一部で伝承されている。コロナの影響を被ってここ2年は開催されていなかったようだが、今年はいくつかの集落で公開・非公開いずれにせよ開催されているようだ。そのうち、河内(こうち)地区の花祭は公開で行い、式次第も以前と変わらないということで、11月26日、27日の土日に行くことにしたのだった。ちなみに、各地区の開催状況については、定期的に東栄町のHPで表にまとめたものを公開されていたので、とても参考になった。佐渡文化財団に求められているのはこういう情報統合能力であり、マーケティング能力などハナから誰も期待していない。

ところで筆者は大学時代に旅行というものをほとんどしなかったから、計画を立てるのも慎重に慎重を重ねて決めた。宿はとらなかった。なぜなら東栄町の宿は少なく、河内の花祭会場の長峯神社からは距離があるからだ。それに夜通し神楽を見るのだから宿など取らなくて良かろう。帰りは近くの湯谷温泉にでも浸かって帰ろう。ということで、行ってみて帰るだけという旅行計画が早くも11月初頭には決まったのであった。

東名高速の集中工事や雨の影響で1時間ほど遅れて豊橋に着き、そこからJR飯田線で切符のシステムに戸惑いながら約100分、夕方18時過ぎに無人東栄駅に着き、予約していた東栄タクシーさんに乗せてもらって5分ほどで長峯神社に到着。歩ける距離だったようだが、体力温存のため往復でタクシーを利用した。

会場には村の人たちが集まっていて既に行事が始まっていた。用意していたご祝儀をお渡しして見学スタート。会場には何ヶ所か焚き木を焚いていて、その近くで一晩中暖を取っていた。火の近くであることもものともせず、子供たちがはしゃぎまわっていた。この子供たちのほとんどはこの後舞を舞う子供たちなのであった。小さい子はおそらく3歳くらいなのであろう、保育園児の頃から舞を舞うのだ。もちろん大人が近くで誘導しているわけだが、それでも基本の所作はわずかでも身に着いているようだ。これなら中学生になるころには立派な舞手になることであろう。

舞を行うところを舞処(まいど)というらしい。中央には釜があり、お湯が焚かれている。正面に小屋があり、そこで笛太鼓を大夫さんたちが奏でている。舞はこの小屋と釜の間のスペース、及び釜の周りで行われる。釜の上にはビャッケやザゼチと呼ばれる様々な飾りがある。河内はこれがすべて白い紙で作られているが、これは神道花という、神道の影響を受けた系統のものらしい。他の地区だとカラフルだったりするが、白いのもまた清らかで美しい。

舞にはいくつか種類があるが、基本的な所作は同じで、後になるほど所作が追加されていくので長くなっていく。地固めから始まり、願主の舞、三つ舞、四つ舞と続いていく。いくつか省略されていたようだったがだいたいひとつあたり30分から1時間半ほどだ。同じ地固めでも、手に持っているもの(とりもの、という)の種類で更に3種類ほどある。扇、矢知、太刀、湯桶などがある。舞は激しい動きを伴うものもあるので後半はみんな疲れてくる。それを周りで見ている若人が「てーほへ、てーほへ!」というあの有名な言葉で囃し立てていく。それがとても盛り上がるのだ。

花祭の舞はこれだけではない。鬼も登場する。もっとも神道花の系統である河内では鬼ではなく、大国主命や、猿田彦など、記紀神話の神様の名前がついていて、鬼面の角も削り取られているのだ。驚いたのがこの鬼の面の大きさで、能面のサイズの一回り二回りも大きく、鬼役の人は包帯を何重にも重ねたような、まるで座布団のような布を顔に着け、そこに面をつけている。迫力十分である。鬼も釜の周りで舞を舞ったり、持っている鉾を振りかざしたりする。大方の舞と同じくこれは厄払い、座を清める役割があるのだろう。

ピークのひとつが午前2時頃の「岩戸明け」で、おかめや翁の面白い面を被った人が5~6人出てきて釜の周りを賑やかに回る。この時は周りの人も楽しそうに囃し立てていて、見ていてとても面白かった。法楽の境地とはこういうのを言うのかもしれない。深夜2時、興奮は最高潮に達していた。

会場には疲れた人のために畳を敷いてストーブを置いたテントがあり、筆者のような見物に来たもの好きなマニア(たぶんリピーター)は岩戸明けの終わったあたりから徐々に上がりはじめ、ウトウトし始めていた。かくいう筆者もそろそろきつさを感じていて、見たいのに眠い、眠いのに見たいというジレンマの中、結局1時間寝て起きる、また1時間寝て起きる、というのを3回繰り返した。その結果、完全に目が覚めるともう夜が白み始める5時半ごろになっていた。

さて花祭クライマックスといえば湯ばやしで、一晩中沸かしていたお湯を、湯たぶさという藁を束ねたものに着けて周りの人にぶっかけるという、これまた盛り上がるイベントがある。このお湯につかると病気しないらしい。これは是非とも見るべし、というところで何と花祭のスケジュールが1時間半遅れていることが判明した。その結果、自分は列車の関係で9時半にはどうしても離脱せねばならず、この湯ばやしを最後まで見ることが叶わずに離脱したのであった。。。

だがそれでも花祭の満足度は十分であった。次回は湯ばやしを見に来よう、という目標もできた。大学時代にお金がなく旅行をほとんどしなかったのをとても後悔した。現場でこの目で見なければ分からないことが日本にはたくさんある。本や映像だけではどうしてもわからないことであふれている。多少無理をしてでもあちこち見物にでかけるべきであったと痛感した。まあ、後半2年はコロナのせいでそんなことできなかったであろうが。

今はある程度旅行も自由にできるようになった(情況的にも家計的にも)。ところが今度は地域情勢の急激な悪化で戦争が起こりそうな雰囲気が漂い始めている。日本は侵略の意欲がなくとも(今ある地方ですら維持できないのに新たな領土を獲得できるわけがない)大国の思惑に巻き込まれかけている。コロナが終わってああよかったねと言えるのは今のうちだけで、近いうち戦争でこういう行事祭りを見物できなくなるのではないかと危惧している。

いや、戦争関係なく、もとはと言えば地方の祭礼行事を見ることができる機会も減りつつある。高齢化、少子化、担い手不足、花祭もかつてはもっと多くの集落で継承されていた。それも時代の波により、またはダム開発によりどんどん減ってきているのが現状である。であるからこそ、今のうちに見ておかなくてはならない、この素晴らしい伝統芸能を。それが今回花祭見学に踏み切った最大の理由なのであった。

だが、そういうこちら側の危惧・悲観も吹き飛ばしてしまうほど、河内花祭の人たちは明るかった。子供たちもたくさん参加していた。見ているだけではなく大人が舞っているその横で同じ舞を真似しあっていた。花祭は安泰だ、と筆者はおもった。子供たちから憧れの的となったり、かっこいいと思われるような芸能はこれからも継承されていくし、地域の誇り、住民の誇りとして大切にされていくはずである。これはあらゆる伝統芸能、民俗芸能に当てはまることである。継承の危機に面しているとき、文化だから伝統だからという地位にあぐらをかき、すぐに学校教育にすり寄ったり、行政をたのむのは間違っている。周りの人からカッコイイ、やってみたいと思われるような素晴らしい技を身に着けること、それが現代日本において芸能を伝承するための条件となっているのではないだろうか。

最後の方は花祭のことから大きく脱線してしまった。難しい話は措いて、とにかく花祭は最高だ、絶対また来たい、というのが率直な感想だ。他の集落の花祭も気になっている。また来年、こんどはもっと公開で開催する集落が増えることを願っている。

おわりに、昨今の情勢の中、困難なこともあったであろうが、開催してくださった河内集落の皆様に感謝したい。あと、寒いだろうということでストーブつけてくれてありがとうございました。